新出『清和源氏向系図』(鈴木かほる氏より)

投稿日:2000年1月1日 更新日:

はじめに

徳川氏麾下(きか)以前の向井氏に関する史料は少なく、僅かに『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』と戦記物『法条九代後記』等にみるだけである。従ってその発祥地をはじめ、足跡についても不明な点が多い。
このたび、幸いにも向井本家当主・辰郎氏に伝授された新出『清和源氏向系図』を入手したので、これを機に同系図の向祖長宗から九代目忠勝までの全文を紹介することを主眼として、若干の考察を加えてみたい。

新出『清和源氏向系図』について

新出『清和源氏向系図』(以下『本系図』と略す)は、徳川幕府が『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』と略す)編纂のため、大名旗本に家譜を書き上げさせた際の基資料となったものと思わせるものである。
清和天皇から書き綴られ、貞享二年(1686)五月に書き改めたとし、以後、書き継がれ、文政四年(1821)十二月の十六代正通の記事で終わっている。各々の事績の間に老中よりの向井文書が書写挿入され、これらは当然ながら『寛永譜』『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略す)『譜牒余録』の向井書上げと一致し『甲陽軍艦』『徳川御実記』『通航一覧』とも逐一符号する。しかも記述が詳細であり、且つ初見記事も多いのである。
まず『本向系図』をあげ、既知の諸向井系図と比較してみる。因みに仁木義長以前の人物は、『尊卑分脈』と一致している。

(以前略)仁木右京大夫・義長-長宗(向元祖)

延文四年已亥三月一日生。仁木四郎号。応安七年申寅三月将軍 義満公菊池武政為追罸九州江発向之時供奉ス。将軍太宰府着給先鋒之大将斯波義持畠山義深陣江令行長宗僅之卒勢ヲ菊池孫次郎武元同彦四郎武秀為大将五百余騎前後討掛ル。長宗百騎勢二分ケ散々ニ戦長宗自カラ武元武秀ヲ討捕得ル其首ヲ。
応永四年丁丑二月一日自将軍義持公伊賀国向庄下賜則仁木改向尾張守号度々依武功也。
応永六年已卯十月大内義弘九州中国勢以起謀叛依之十一月三日義満公八幡出張畠山基国斯波義将細川頼元北国勢加発向長宗伊賀与利遠路凌来而戦十二月二十一日義弘攻破義弘討死子新介降参為賞同七年庚辰正月三日伊勢国旧領義持公与利下賜。
応永二十五年戊戌二月二十九日卒六十歳宗光院道善。

長宗-長興
康暦二年庚甲七月九日生。中務大輔応永二十二年乙未七月朔日自将軍 義持公日吉於神前美濃国中庄下賜同参拾年癸卯三月義持公伊勢参宮之時供奉而上京逼留在京同三十一年甲辰二月義持公鎌倉持氏止不和依之為国用心暇給御太刀下賜二月二十五日京都発足ス。此系譜雖取持ス右京大夫義長ヨリ修理亮長忠之間朽テ不分明依之宇都宮左近春房江兵庫介与相尋処ニ自上代記録相考貞享三年丙寅五月十一日書付持参ニ付長宗長興二代書加ヘ

長宗-長興-長時
仁木兵部大輔 義満公義持公仕

長宗-長興-長時-長行
仁木兵庫助

長宗-長興-長時-長行-長親
向井伊賀守 義教公近士

長宗-長興-長忠
応永十二乙酉十二月一日生。三郎修里亮。永享十年戊午十月将軍義教公鎌倉持氏公不和合戦時将軍方属勇功績。享徳元年壬申五月六日卒四十七歳

長宗-長興-奥春
応永十四年丁亥二月二十五日生。同十五年戊戌二月二十五日庄之助号。山中右衛門号。美濃国山中庄領。

長宗-長興-奥春-義真
永享元年己酉五月朔日生。号右馬之助。

長宗-長興-奥春-為茂
永享二年庚戌二月朔日生。則日速水時則為養子継家。

長宗-長興-長忠-長春
永享九年丁巳四月五日生。三郎。式部大輔。寛正元年庚辰九月畠山右衛門佐義就謀叛依畠山政長雖討手向義就強敵故政長軍利依無之将軍。義政公加勢乞う同三年四月細川成之山名是豊武田佐々木伊勢国司北畠教具向長春弟修理共ニ重而向攻之義就敗北長春兄弟諸士抽功績。
応仁元年丁亥正月細川勝元ト山名右衛門督持豊入道宗全不和前将軍義視公宗全御座同九月四日義視公京出伊勢国北畠中納言教具卿館御座同十七日長春一番参警護。
同二年十月義視公上路時弟修理供奉勤。延徳二年庚戌正月十二日卒五十四歳。

長宗-長興-長忠-公仲
文安二乙丑年生。修理。寛正三壬午四月河内嶽合戦有大功誉十八歳時也。

長宗-長興-長忠-長春-長勝
寛正元年庚辰八月九日生。右衛門佐。文亀二年壬戌五月二十三日抑口論敵五人切殺数ケ所手負腹切不叶刀死四十三歳。

長宗-長興-長忠-長春-長勝-忠綱
長享二年戊申二月一日生。三郎太郎。刑部大輔。永承二年乙丑六月北条早雲近国威振忠綱十八歳早雲合戦得勝利重軍猶雖勝利大敵後詰依無之引退。天文二十二年癸丑卒六十六歳

長宗-長興-長忠-長春-長勝-忠綱-正重
永正十六己卯年生。助兵衛尉。伊賀守。弘治年中今川義元卿 朝比奈駿河守以招給ニ依駿河下義元卿エ属今川家没落以後武田晴信卿ヨリ山縣三郎兵衛昌景以招呼給其文之写。

向助兵衛尉早々令参上ハ被宛行知行等海賊之儀可被仰付者也仍如件。
元亀三年壬申 山縣三郎兵衛奉之
二月六日信玄朱印
朝比奈五郎兵衛殿
本分兵庫介正興所ニ有之
因茲元亀三年より晴信公尓仕度々武勇誉有天正五年駿州興国寺在城勝頼卿より感書を給ふ其文写。
急度染一筆候抑今度敵其表相探候処ニ在所之是非妻子ニ不悶着
応下知其地在城忠節不浅次第候必一(ひたすら)恩謝忠功身上可
引立候弥可被働忠信儀専一候委細令附而落合大蔵少輔口上候之
条不能具候恐々謹言。
六月勝頼御在判(天正五年)
向伊賀守殿
同  同心衆
其後同国用宗之城守テ天正七己卯年九月十九日
家康公兵一万ヲ以御動座先陣松平家忠甚太郎牧野康成右馬之充以攻給ふ伊賀守諸卒に下知して相戦といへとも兵つき運きわまって六拾壱歳尓して自害す尾崎半平首を揚る同心遠藤飛騨杦山作左衛門家来尓より大時孫右衛門渡辺勉(?)角之助脇久助原庄右衛門脇原三佐衛門大野三蔵討死此者とも皆信玄勝頼も御存知之者也此外之士卒討死すといえとも大勢故不及記。

長宗-長興-長忠-長春-長勝-忠綱-正利城右衛門尉(伊賀守弟)
病者故勢州慥柄尓居ス。

忠綱-正直常聲入道-正吉作兵衛尉-正員作兵衛尉-正敏弥十郎

忠綱-正重-正行伊兵衛尉(正重養子)
武田晴信卿勝頼卿に仕父伊賀守と同城尓において勇功をはげまし四拾二歳ニ而自害。

忠綱-正重-正綱(正重実子)
兵庫助。後兵庫頭改。家紋上がり藤丸。替文丸ノ内二ツ引五七桐。母長谷川伊勢守長憲女。弘治二丙辰年生。武田晴信卿勝頼卿に属し後尓天正十年六月より。
家康公 秀忠公両君に奉仕前天正七年卯年四月末北條之兵と吉原表において船戦す強敵を撃破敵船を乗取。
勝頼卿より感状給る其文之写
此梶原は法条衆梶原満と申もの船奉行大身千々ヨシ
拝見船ナリ度々廻合有之
今度至伊豆浦及行之砌梶原馳向之所作戦得勝利郷村
数ケ所撃破殊尓戦功之至感入候向後弥可励む忠勤者也仍如件。
(天正七年)卯月二十五日 勝頼御印判
向井兵庫助殿
本分兵庫介政興所ニ有之
父伊賀守用宗之於城戦死之節者駿州清水之津押テ有之其後勝頼卿より父伊賀守家督を兵庫介給る其書出シうつし

駿州
一、嶋一色口            百八貫六百弐拾文
同(志太郡)
一、平嶋江増分           四拾七貫参百文

一、浅脇内              参拾貫百文
同(富士郡)
一、久爾之郷内           弐百六拾七貫八百七拾文
同(富士郡)
一、横尾内              四拾弐貫参百弐拾文

一、正念寺分            三貫八拾文
同(安倍郡)
一、徳願寺領 柳津内塩津内  三貫百五拾文
同(安倍郡)
一、小河内 源左エ門屋敷    拾五貫文
同(志太郡)
一、岡部内 浅羽給        拾貫九百文
同(庵原郡)
一、高橋内 彦三郎分       八貫弐百文
同(有度郡)
一、足洗内 東光寺分       九貫百文
同(有度郡)
一、宇藤内 御厨分        拾八貫文
同(富士郡)
一、一色内 冨士常陸分     弐拾貫文
同(益頭郡)
一、中根内             三貫九百文

一、徳願寺領            拾参貫四百弐拾文
同(有度郡)
一、大屋内             拾五貫文
遠州
(原郡)
一、西嶋郷新田共長谷川右近少四百拾弐貫八百文
同(山名郡)
一、大原内             百五拾四貫弐百文
以上
父伊賀守今度於尓用宗之城戦死誠忠信無比類次第候者
右抱来領知相斗集武勇之輩海上之奉公不可有疎略猶戦
功可令重恩者也仍如件
天正七年己卯
壱拾月十六日勝頼御居判
向井兵庫介殿
本分主水所ニ有之
此後甲州没落之以後行に引籠り有所に
家康公より本多作左衛門に向井兵庫助を可相尋旨被。仰付因茲天正十壬六月被。召出御扶持方弐百俵被下。
一、天正十年壬午七月甲州江北條氏直卿働被申。
家康公も甲州新府尓御馬被為立御戦陣なり其御留守尓て本多作左衛門を以北條家之持に御手つかい被。仰付之砌伊豆国あられと申所足ノ城尓て兵庫介高名仕候得とも渇僧首殿(カ)初而御実見にそなへ可奉にいかゝと存首をうち捨弥相働ところに鈴木団次郎首を打取再拝(采配)を添て持来ル其様子一二尓御旗本江本多作左衛門より御注進被申上処に御悦機に被思召作左衛門まて被下御奉書之写
尚々向井殿御高名之段御手柄不得申候御心得可有之ふかふかと御悦喜候御意    候万々其表三枚はし興国寺迄御飛脚諸事油断無之様ニ可被仰付候以上。
御注進之趣則申上候処に一段之御機嫌不及申候何方も加様ニ被成合候様目出    度儀有間鋪候公私之大慶不過之在々数火殊ニ足(城脱カ)之儀押破各高名不得    申候各海賊衆被情入候由ニ候是以相心得可申由御意候弥各被情出候様ニ御指    図尤ニ候由被。仰出候是等之趣可仰聞候然者くろ駒表之頭共今日中ニ敵陣前江    縣申候ヘハ無正躰々候何々一両日中に破軍たるへく候間如仰陸奥守(法条氏照)   をハ是非生捕候て越可申候間上方へ御上セ尤ニ候敵方らも方々御共此方より尚    々精々入可申候間誠以敵一人も生てハ帰し申間鋪候可有御心易候恐々謹言。
(天正十年)八月十四日 阿善九正勝 判
本弥八正信 判
大信十忠
本作左 御報
此奉書作左衛門より兵庫助給本文将監所有之
彼鈴木団次郎首御実検之処下歯を懸ケ押切候ヲ。
上覧被成御帰陣之已後刀大切故。上覧被成翌年又破刀御尋被成候得共御請申上兼罷有候ヘハ重而。上意有之故有之ままに申上候得者難有御諚ニて右之刀弐百俵ニ被為請被下候此刀今に同名将監所持作者備前菊光也。

一、天正十二甲申年長久手御陣之節
尾州大野尓戸田三郎右衛門被為置兵庫介も被差添候然所に九鬼大隅守伊勢小濱辺江出張之由承候故兵船数艘ニ而勢州江渡海小濱之浦江揚九鬼大隅守ト一戦刻兵庫介助正綱一番に鑓ヲ合高名致候三郎右衛門敵ヲ追崩し得勝利此刻和州之筒井順慶甥布施左京亮大将ニテ三千余之人数ヲ卒し勢州桃殿江押出し相戦此節左京亮嫡子宮内少(輔脱カ)を兵庫助討取ル三郎右衛門敵ヲ突崩し得勝利。

一、天正十八庚寅年小田原御陣之砌
家康公清水より国市丸御船ニ被為。召神原ら御揚り被為
遊候夫より兵庫介儀伊豆国江被遣候同国田子ト申所尓尓山本信濃守籠罷有掻上江兵庫助相働彼ノ掻上ケ江押込敵(敗脱カ)北ス其節手負申様子具ニ達上聞御感書之旨。上意之事。

一、関東御入国之節相模国上総国両所に於て二千石拝領向井五左衛門同権兵衛同権七郎渡辺五郎作組ニ被。仰付同心五拾人御預ケ御召之御船奉行被。仰付難有御諚共有之其後右同名三人之者共兵庫介御訴訟申上大御番ヘ被為入候事。

一、高麗陣之節
家康公朝鮮江御渡海被成候者兵庫助御呼可被成との。
上意其後彼地江御渡海被成候間可参旨。上意ニ付て備前名古屋迄参上雖然御様子有之候て御渡海やむ御帰陣之砌名古屋ら国市丸御船ニ被為。召大阪迄御乗船船中之儀万事兵庫介次第と被。 仰出御懇之。上意共之事。

一、慶長五庚子年関ヶ原御陣之節
権現様神奈川より国市丸御船ニ被為。召金沢ら御揚被。遊候夫ら兵庫助御船ニ而罷越候へ共風悪敷ゆへ遠州之懸塚江御船ヲ入候得者打続悪風尓て出船不相成所尓関原御勝利之旨承御船懸塚ニ差置陸ヲ中途迄罷越候。
家康公。上意ニ者皆々致油断遅参之由ニ而御機嫌悪敷。御目見不罷成候所尓兵庫助。御前江罷出候ヘハ兵庫助をは誰か出し候やと。御意尓て御座候處兵庫助申上候者申訳尓罷出候武士ハかやう成儀常尓心掛罷有候に何とて油断可仕候哉大風故渡海ならす候船を捨陸を参候ヘ者先尓て御船之御用をかき候間御船尓て可参と見合候間依之及遅参候と申上候へ者兵庫助者理屈を申上候由。上意御機嫌なをり残御船手之者共御呼出し。上意ニ候兵庫助者船巧者殊尓前々より度々武勇も有之而偽なと可申者尓無之候間御船手之者共。御目見被仰付候と御念頃之。上意有之事。

一、秀忠公より被成下御書写御文書之口者きれて不分明間略し写ス
来祝着候青山常陸(忠成)介可申候也
六月二十三日秀忠御居判
向井兵庫助とのへ
本文兵庫介政興所ニ有之

一、大阪両御陣尓は相模国海辺を相守三崎或走水尓居す。

一、辰年 秀忠公よりなし下さり御自筆之御書
初鰹一折到来早々奇特候猶青山図書助可申候也。
正月十八日秀忠御居判
向井兵庫介とのへ
本文兵庫介政興所ニ有之

一、寛永元年甲子三月二十六日六十九歳ニ而武州於江戸病死
法名天慶玄龍相州三崎ニ而見桃寺ニ葬
正綱妻 長谷川三郎兵衛長久女
法号 霊雲院殿桃室周恩大姉
寛永四丁卯年三月二十日三崎見桃寺葬

正重-正行伊兵衛尉-女
兵庫助(正綱)妻死

正重-正行伊兵衛尉-五左衛門尉卒
秀忠公奉仕 大御番

五左衛門尉-権十郎卒
御小姓組
五左衛門尉-権十郎-女
御小姓組間宮文左衛門妻
五左衛門尉-権十郎-半七郎
家綱公奉仕 大御番
五左衛門尉-権十郎-半七郎-千之助
大御番 後宇右衛門ト改
五左衛門尉-猪兵衛尉卒
五左衛門尉-五左衛尉卒
紀伊大納言頼宣卿家人 紀伊中納言光貞卿家人
五左衛門尉-五左衛尉-酒兵衛尉
五左衛門尉-五左衛尉-十左衛門
五左衛門尉-五左衛尉-女
正重-正行伊兵衛尉-権兵衛尉卒
大御番
権兵衛尉-権七郎
大御番
権兵衛尉-五郎兵衛
大御番 家光公奉仕 御手洗家と続

忠綱-正重-正綱-忠勝
秀忠公 家光公
二代目 正綱実子想領 左近将監 禄六千石 組士数騎 同心百参拾人
母 長谷川三郎兵衛長久女
一、天正十壬午年五月十五日生

一、慶長五庚子年景勝御退治として
秀忠公御出馬之刻御船手者江戸ニ罷有候へと被。仰付候得共将監儀者御訴訟申上御供仕度之旨御老中迄申上処に。
上意之上者江戸ニ罷有可然とて取次無之候左候ハハ御直に成共可相願と申候ヘ者何とそ見合可達。上聞之旨其以後御訴訟之旨御老中被申上処ニぬきんて達而申上儀奇特尓被為思召候間御供に可被召連との。上意にて下野国宇都宮まて御供仕候處石田治部少輔逆心之儀御注進有之故江戸御船手中不残船尓て相廻り候様ニと被。仰出候間将監も早々江戸江参御船尓て可相廻旨被。仰出候へとも是迄御供仕候間とかく供奉仕度旨申上候得共色々難有。上意尓て景勝表ハさせる儀尓も無之間早々罷越可申旨被。
仰付故是非江戸江罷帰御船尓て相廻候風悪敷遅参其様子者父兵庫介伝尓記す。

一、慶長六辛丑年従 秀忠公相州において五百石拝領同心五拾人御預ケ 御召之船役被 仰付候。

一、慶長年中上総之国大多喜浦江南蛮之大船破損流れよる大将リヤウエイ ヤクヲ子レイスを初人数六十余人生残りて有之を江戸江召寄られ将監尓馳走被。仰付御船一艘飯米其外色々被下置本国江被為帰候其年より三年目尓南蛮国王より為御礼使者をさし上(候脱カ)間将監方江も書翰被差越候右之書翰酉ノ年火事将監方ニ而焼火。

一、慶長十五庚戌年久永源兵衛と将監両人淡路国江被遣天下諸大名之船あらため被。仰付時服黄金拝領。

一、慶長年中相州江南蛮船着岸其段を申上候ところ尓老中より奉書被成下候写
御礼拝見候仍而浦川江着岸之南蛮船之加飛丹御礼被申上度候由願来之
通懇尓申上候處に御仕合共ニ候間可御心易候然者当月二十四五日頃駿
府江参着被申様ニ被罷上可然存候其御心得尓て其時分御同道候而御越
可被成候しからハ。
大御所様今月十四五日時分ニ者駿府江御着座可被成候と存候尚期後音
候時候間不能望候恐々謹言。
八月六日(慶長十一年)  本多上野介(正純)
向井将監殿
本文将監所ニ有之
御礼令拝見候浦川江着岸之南蛮船加飛丹御礼申上度候由蒙 仰候何も
預船懇ニ申上候処ニ御仕合共ニ候間可御心易候当月二十七八日時分駿
府江参着被申様ニ被罷上可然存候尚期後音之時候間不能一二候恐々謹
言。
八月十一日(慶長十一年) 本多上野介
松平右門太夫
成瀬隼人正(正成)
安藤帯刀(直次)
向井将監殿

一、慶長十八年六位任ス

一、慶長十九甲寅年大阪御陣之節江戸より御船尓て罷上ル将監弟左門(正通)将監嫡子五郎八(正俊)召連関船六艘荷船小船等合て十五艘与力同心水主并手前之人数すべて六百人尓及ふ同十一月五日江戸出船領知ゆへ相州三崎まて相越同八日に出船渡海之処尓打つつき西風はけしく難儀に及ふといへとも色々下知をいたし罷越候処に遠州懸塚尓て就中風あらく船共ちりちりに吹流レ左門船者豆州之内高津嶋江吹流され五郎八船同国戸田村江吹付られ与力渡辺五郎作船家来的場太兵衛船者遠州沖之須江吹付られ将監乗船尓家来西脇鹿之助船相つつき所尓又ぎゃく風強発尓鹿之助船行方不知将監船者仕合能同月十六日浅摂州伝法江着岸ス右之者共も十七日暁より大阪江参着ス。

一、同十一月十六日伝法尓松平武蔵守同左衛門太夫船奉行菅(若脱カ)狭同権之助罷有て将監江申候者五三日以前尓参着。御旗本之御下知相待候処江将監参候間万事可請御差図と申故川表柵を三重振置候を則両人江申渡二重ぬかせ小船尓乗柵きわ迄参様子見届け御旗本江御注進仕候處尓植村主膳安倍四郎五郎御使ニ参。上意之旨承残柵も取払敵追崩し新家尓陣取罷有候。

一、同月十九日之晩新家之適地焼仕候間急き罷越候へ者早々敵引取申候しんけの川端尓五拾挺立之船引付有之ヲ取申候此節家来長谷川五太夫川端五郎兵衛遠山佐次兵衛軍功有。

一、同月十六日之夜より同二十二日迄伝法新け陣取度々鉄砲廻合仕候千賀与八郎菅若狭同権之助将監と同前にかせき申候。

一、同月二十日松平武州より将監江書状参候其文の写
一書令啓上候夜前しんけ村自焼仕罷通候付左衛門(忠綱)督我等船手之者
とも罷越下福嶋野田之牧村今朝放火仕候由申越候内々船拵(こしらう)ハ仕
候へと申付候得共彼地江参候儀不存候故以書状不申入候其様其元ニ御座
上者以来之儀万事得御意候様こと申遣候何様追而可申述候条不具恐々謹
言。
霜月二十日(慶長十九年)  松平武蔵(利隆)守
其陰(カ)居判
向将監様
人々御中
本文主水所ニ有リ

一、同二十五日野田福嶋之間尓陣取昼夜鉄砲廻合有之将監儀敵之安宅船江乗移リ相戦敵三人討捕残敵川江飛入申候向井将監忠勝一番乗と名乗ル九鬼長門守家人申候者長門守一番乗といふ将監聞九鬼ハ不参一番乗は将監也といふ九鬼者又申者長門守ハ士卒を以戦陣仕候処尓御一人来勝利あらん哉と申ニ付将監大ニいかり九鬼ハ未参大将之一番乗将監也と刀尓手を懸ケすて小事出来候半(わん)所江小濱千賀来リ被申候九鬼者船を乗といへとも九鬼ハ不参将監わ自身敵船尓乗移リ相戦船ヲ乗取其軍功莫太也論する尓不及と被申候依之静謐ス将監事九鬼者より少シ遅といへとも自身敵船尓乗移リ向井将監忠勝と高声尓名乗尓つき残船大将其声を聞事慥成尓よって如此取扱将監家来下里牛之助的場太兵衛鈴木次兵衛横矢助左衛門同喜左衛門大働有リ敵ことことく敗北ス。

一、同二十九日未明於福嶋合戦ス六拾挺立之関船家来杉生六太夫一番乗仕乗取大阪船奉行乗申船之由人足ことことく川江飛込申候侍弐人居残しヲ一人将監鑓付家来大野喜兵衛尓首をとらせ一人者家来三平佐郎右衛門討取同所ニ而三拾挺立之関船乗取ル則家来海老原主税討死家来角崎長右衛門二番乗仕乗取敵ことことく川江飛込逃ケ申候敵三人者生捕家来高橋喜内杉生仁右衛門大働福嶋ヲ追破リ此所尓陣ス九鬼長門守千賀与八郎働有御旗本江御注進申上候処尓御船手中江奉書被成下将監左上ル使者三平佐郎右衛門大野喜兵衛ニ時服二ツ被下之。
貴礼令拝見候仍今卯之刻福嶋ヲ御追放其上首生捕等一ツ書之通
具ニ被露仕候処ニ不成大形。
御感ニ思召候各御使者者江御時服被下候其許之様子千賀孫兵衛
被申上候弥無油断被入御情之儀専一ニ御座候恐々謹言。
霜月二十九日(慶長十九年)   土井大炊助(利勝)
安藤対馬守(重信)
酒井雅楽頭(忠世)
本多佐渡守(正信)
九鬼長門守(守隆)殿
向井将監殿
小濱民部(光隆)殿
千賀与八郎(信親)殿
千賀勝次郎殿
小濱弥十郎(守隆)殿
本文九鬼長門守方ニ有之カ

一、極月二日近藤石見守方ら廻状之写
尚々九兵らも申入候へとも少遠候間先我
一昨日者船被仰付其上天王寺下迄此方江早々参候而
等ら申入候其元之様子御報を承度存候以上
一段添存候昨夜鉄砲事外なり申候間無御心元存候仕
寄能候被成手負無御座候様ニ可被召思候二十九日之儀
一段御手柄共無斗候
上意ニも一段可然様ニ被 思召候間御祝着被察何事
も懸御目方々御礼可申候恐々謹言。
極月二日(慶長十九年)     近藤石見守
正用居判
向将監様
千賀与八様
人々御中
本文将監所ニ有之

一、同七日神谷縫殿助より返礼之写
尚々何も御年寄衆も拙者成申より貴様之儀たゝおふか
御状拝見添奉存候如仰先日者早々懸御目候今度御手
たにおほしめされ候間御心易可被思召候以上
前之儀被仰趣不及何も御存知之事ニ御座候御心易可
被思召候さりとてハ日頃被仰候ことくと奉存弥々
御たしなミ御法度以下可被仰付候将亦小屋道具とし
杉けた二十本小竹十五束送被下爰元ニハ何らてうほう(重宝)
なる物ニて御座候何も御越候時分面上ニ可申上候恐惶謹言。
十二月七日(慶長十九年)    神谷縫殿助
正頭居判
向 将監様
貴報
本文主水所ニ有之

一、同八日阿部備中守殿より之返書写
貴札添存然者先度しんけハ福嶋之様子被仰越候其砌ら貴様被入御情御
手ニ御逢候通於 御前も節々御沙汰候ヘハ間(ママ)御心易可被思召候
弥御連状之様子見申候御次而之時分様子可申上候不及申候へとも尚々
万事被入御情可然存候何事も懸御目可申承候間早々及御報候恐々謹言。
十二月八日(慶長十九年)    阿部備中守
向 将監様
御報
本文主水所ニ有之

一、同十三日藤堂泉州ら返礼之写
御状拝見申候今度福嶋ニテ之儀御次手ニハ有様之御取成可申上候間可
御心易候仍奉行人之儀御礼是又承届候尚面上可申述候恐惶謹言
十二月十三日       藤堂泉守(高虎)
向 将監様
御報
本文主水所ニ有之

一、同二十八日石川主殿頭ら之返礼之写
尚々今度は働無惨所様子ニ候間拙者述ニ自然何にも於
貴札拝見申候如仰先度ハ久々ニて得御意大慶ニ存候
御尋御有躰を念頃ニ可申上候以上
然者於福嶋表ニハ赤き吹貫と上下白中赤ミのほり(幟)と
真先ニ立申つる将亦五分一ニてハ夜ニ入候て中嶋ニ
人声仕候間誰々船ニてととい申候ヘハ貴様之船二艘
千賀与八郎殿船斗ニて候由申つる何も御次而も候ハ
ハ右之通応(懇カ)頃ニ雑談可申候由少於御隙ハ御出所希候
恐々謹言
十二月二十八日(慶長十九年)      石 主殿頭(忠總)
向 将監様

一、元和元乙卯年正月朔日板倉伊州ら参候書札之写
新春之御慶目出度申納候仍而旧冬ハ両
御所様大阪表御座候付而貴様も船ニ而御廻戦場口江早々御越殊尓於福
嶋一段之御仕合之由於我等大慶候将亦御父兵庫殿御(褒脱か)美之由是
又珍重存事就中楯板之儀伏見江可被指置と存候間長喜兵衛へも其由申入
候其御心得可被成候恐惶謹言
正月朔日         板倉伊賀守
向 将監様
本文主水所ニ有之

一、同二月御加増五百石拝領寅之御陣ニ働之段
御感之旨 上意之事

一、同年大阪御陣ニ付将監并忰五郎八(正俊)将監弟左門(正通)組之士同心
召つれ関船七艘荷舟小船等合拾七艘与力同心水主手前人数
すへて七百余三月末江戸出船四月初摂州尼ヶ崎江着岸
此所尓て大坂出入之船をおさへ罷有候大坂江入候船両度
尓七艘押取乗候者とも溺捕御注進申上候近海之海辺ヲ相
守其節御老中ら奉書之写
尚々模様能候様ニ各可被仰談候以上
急度申入候大坂江米船其外商賣船并奉公人等少船ニ
而罷越候由関船を御出し候て押取舟尓乗申者ハ可搦
捕候若及違儀者有之者可被打果候恐々謹言。
四月二十三日       安藤帯刀(直次)
本多上野介(正純)
九鬼長門守(守隆)殿
向井将監(忠勝)殿
小濱民部((光隆)殿
内藤紀伊守(信正)殿
戸川肥後守殿
本文九鬼長門守所ニ有之

老中より書状之写
二十一日二十三日両通之貴札令拝見候然者為 御目見江
可有御越所尓其地御番之儀昼夜無断ニ付て御延引
之旨得其意尤ニ存候将又大坂江入申候船御改候様ニ
と被仰越ニ付而九鬼長門守殿小濱民部殿被仰談伝法
之沖ヲ御見廻らせ候所ニ大坂江入候小船三艘貴殿者
留申候ニ付而彼舟ニ御座候米大豆道具等注文被成大
御所様御年寄中江御上ケ候ニより此方江も写御越
令被見候具ニ御改候テ被仰上候段尤之御事ニ御座候
如何様ニも上野介殿帯刀殿隼人殿御指図次第ニ可被
成候恐々謹言
四月二十四日
土井大炊助
安藤対馬守
酒井雅楽頭
向 将監様
御報  本文将監所ニ有之

老中ら奉書之写
尚々昼夜無油断可被仰付候以上
急度申入候先書ニ如申入候大坂江入候船能々番ヲ御付置候て御押取可被
成候加子以下搦可被成候若違儀申さは可被打果候恐々謹言
卯月二十五日
本多上野介
安藤帯刀
板倉伊賀守
内藤紀伊守殿
向井 将監殿
小濱 民部殿
九鬼長門守殿
本文内藤紀伊守方ニ有之カ

右同断
尚如何様之船をも堅く御とめ可被成候自然及具儀候者
貴札令拝見候仍而去ル二十七日之夜伝法口ハ船入申候
候ハハ御成敗可被成候将又御捕置候者をハ御せんさく
ニ付とめ候処尼ヶ崎之間かし嶋江船を乗捨候者共に
候て被成何方之者尓て候と申書御注進可被仰上候以
け申由得御意候願来通応(まさ)ニ達 上聞候間可御心易候

弥其許之儀無御御油断大坂江出入之船御改可被成候恐々謹言
卯月二十五日
本多上野介
安藤帯刀
板倉伊賀守
向井将監殿
本文将監所ニ有之

若年寄衆状之写
貴札令拝見候仍而きす口江入候船四艘御とめ申由尤ニ存候然者堺浦之様子御覧可被成ため船御廻し候所ニ鉄炮打懸候由得其意存候次ニ堺江火を懸岸わた近辺江も煙を上申候由御紙面之趣則申上候折々御注進様子御機嫌ニ被思召候弥御情被入尤ニ候将亦御出馬之儀いまたいつとも不相定候猶重而可申入候条不能一二候恐々謹言
卯月二十九日      井上主斗頭(正就)
水野監物(忠元)
向井 将監様
本文将監所ニ有之

一、四月二十九日大野道軒五千余之人数引連堺町地焼仕候風聞故船ヲ急罷越陸江揚リ廻合可仕と存所尓堺之濱尓洲有之不存船ヲ乗上ル船よりおり候へ者又深ミ有之て陸へ上ル事付成鉄炮廻合一時余仕ル道軒人数ニも手負相見江候将監右之乳ノ上尓鉄炮手負猶進て鉄炮打掛ケンハ敵みたれなびく處に残御船手衆相続ヲ見て敵敗北ス将監人数も手負有之家来長谷川五太夫脇久兵衛鈴木六郎右衛門高橋喜門斉藤権左衛門小林角左衛門大働堺之濱ニ引付有之小船少々取之事
右之通御注進申上候得者左之通奉書被下候也

老中ら書状之写
貴札之趣具令拝見候得其意存候其許万事無御油断旨
御前江申上候所ニ御機嫌ニ御座候船様子之儀も委細
令得其意候何も相談申重而可申入候間不能一二候
卯月晦日
土井大炊助
向井将監様
本文将監所ニ有之
尚々只今能々御養生被成先々御奉公かんやう存候以上
貴札令拝見候仍而昨日於堺表之様子御使者口上之趣具に承候然
者右之乳上江鉄炮あたり申候由無御心元存候併余り御痛無之由得
其意存候不及申候得とも御用まへの事候間能々御養生被成尤ニ存
候末々之御奉公なされ候様ニ可然奉存候以来之儀被仰付筋目御情
を被入いらざる所尓てあやまち候ハハ両
御所様御前不可然候間其御心得御尤ニ候御年寄衆被仰候通喜太夫
彦太夫方ら可被申候恐々謹言
卯月晦日             井上主斗頭
水野監物
向井将監様
本文将監所ニ有之

老中ら奉書之写
御状并御使者口上之趣承届而具ニ達
上聞候所尓御情入候段御機嫌ニ御座候将又貴殿少手を御屓被成候
よし何とて左様ニ脚所成所江御上り候哉手屓之段者いまた不申上候
時分見ハからひ可申上候間可御心易候不及申候へとも万事越度無様
ニ御念被入候儀専一ニ存候仍而加子之儀得
上意候而重而可申入候御手無油断御養生かんやうニ候尚期後音之時
候不能具候恐々謹言
卯月晦日             安藤対馬守
土井大炊助
酒井雅楽守
向井将監殿
本文将監所ニ有之

濃州ら書状之写
尚々御手之様子実之儀ニ候哉無御心元存候御報承度存候
態以飛札申入候然者其許於川口廻合御座候而貴殿少御手ヲ被屓候
様及承候実之儀ニ御座候哉様子無御心元存候不承放申入候具ニ御
報可被仰聞候我等儀大和筋江御先江罷出郡山ニ在之儀候先日以後
状不申入御床敷存候尚期後喜之時候不能具候恐々謹言
五月二日            本 美濃守(忠政)
向井将監様
人々御中

老中ら奉書之写
昨二日之御状令拝見候御紙面之通一々得御意存候然者堺表ニ而貴
殿御仕合之儀委細承届候万事御遠慮かん要候疵御養生可被成候恐
々謹言
五月三日            安 対馬守
土 大炊頭
酒 雅楽頭
本 佐渡守
向井将監殿
本文将監所ニ有之

右同断
尚々其許昼夜御苦労被成候何ニても御用候ハハ可仰蒙候
蛤御進上候則披露申候一段御仕合ニ而候将亦御手之
少しも不沙汰申間敷候 貴殿手之儀千万無御心元存候不
儀も御次而之間申上候處ニ無御心元思召候旨 御懇
及申候へとも時分之儀ニ候間急度御養生専要候
之御諚共ニ候能々御養生可有候恐々謹言
五月三日
本 上野介
向井将監殿
本文将監所ニ有之
右同断
尚以基地ニ搦置候人々之儀為主君者ハ御尋被成儀も可有之
間籠者いたせ下候加子以下之者ハ長門殿相談有之て御成敗
之者をハ成敗之者をハ成敗可被成候以上
御状令拝見候候其許之様子被仰越候通委細申上候昼夜情御入候
御苦労之談段御意被成候弥無油断可被仰付候仍其元ニ搦置候人々
之儀ニ付而九鬼長門守江具ニ申入候御相談有而可被仰付候恐々謹言
五月三日               成 隼人正
安 帯刀
板 伊賀守
本 上野守
向井将監殿
本文主水所ニ有之

一、五月七日尼ヶ崎罷出御旗本江候處ニ新家ニ而引退敵追付将監手前江首三ツ家来鈴木六郎衛門斎藤権左衛門杉生六太夫と申もの高名仕候夫より罷越候所尓こぼれ者有之故青葉者弐拾人斗生捕いたさせ罷越候処ニ最早及暮御本陣江も道筋通シ不申候由候毛利甲斐被申故罷帰八日早朝ニ御本陣江参上候ヘハ茶臼山江被為  成候ニ付て則参上  御目見仕候所難有
上意尓て手所  上覧可被成旨因茲はたぬへき申候手所急所思召候間有馬江入湯可仕旨  上意之事此段其日御供之衆何も可被存事

一、落城以後落人可有之間可入念旨被  仰付候付而番船ヲ出し男女搦取り御注進申上候因茲老中ら参候返書之写

御状拝見候伝法口ニて船御改女十八人子供二十三人御越候弥被
入御念候而御改可被成候恐々謹言
五月十三日           安 対馬守
向 将監殿
本文主水所ニ有之
右同断
尚々御ねんのいりたる御札別而恭奉存候尚面上相つもる
貴札預令拝見候仍貴殿御事此方江可有御越と承候此
も可被申承候以上
方ら御左右申入迄ハ其元御番かたく被仰付御逗留尤
ニ候然者しんけいニて御うたせ候のきんちゃくニ
御座候書立被成御越被成候入御念候儀尤之御事候其
元万事入御念候通
御前江も申上候処ニ一段御機嫌ニ被思召候御手能々
御養生専一御座軽と思召御油断あるましく候此方
御前儀ハ可御心易候其御番之儀弥堅可被仰付候将亦
船儀可有御下かと承候不入分rヲハ御下候ても可然候
猶期後音時ニ候間不具候恐々謹言
五月十三日         土井大炊助
向井将監殿
御報

右同断
貴札趣令拝見候仍てんほ(伝法)尼崎川口ニ番船ヲ被置候而
去ル十二日ら御改之由と得其意候事
一、百性男女之分対馬殿江被御立合在所之御せんさく候て御返し
之由尤ニ候
一、年九ツニ罷成候女子同おち女共ニ四人加藤左馬殿家中之船
尓乗参候を御改候ヘハ秀頼之内三宅善兵衛と申ものの子ニ
て候と申ヲ左馬殿内細次郎兵衛と申者預り度候由申ニ付手形
を取御預候由得其意存候事
一、四ツ罷成候男かふろ弐人乳(ちのと)一人付候て加左馬殿家中
之舟乗候ヲ御改候ヘハ秀頼之内井出作左衛門と申者之子共ニ
て候由申候ヲ安対馬守殿御相談候ヘハ彼次郎兵衛手形ヲ取預
ケ候へと被申候ニ付而御預ケ候由承候
一、何者ニても不審成者ヲハ加左馬殿内衆ならバ左馬殿手形ニて可
有御預ケ候又何之家中ニても安対州貴殿御存之者ニ候ハハ其手
ニて可有御預ケ候無左候者本主人の手形無之者ヲハ御留候て尤
ニ候同様成偽ヲ申候いんも不被存候間安対州江よくよく御相談ニ
て尤ニ存候恐々謹言
五月二十一日        土井大炊助
向井将監様
御報

右同断
御状令拝見候御改之男女小堀遠江北見五郎左長野内蔵村上三右
江御渡手形御取之由尤ニ存候将又大野主馬有馬辺江落行候由案
内御座候尓人付ヲ被付置候由尤ニ存候被入御念御尋可被成候次ニ
伊藤丹波守者三人搦参候由得其意存候早々伏見江可被遣候明白此
方江御出可有之間面上ニ可申述候恐々謹言
五月二十八日      安藤対馬守
向井将監様
本文将監方ニ有之

一、元和元卯年四月二十九日堺浦一戦御下知無御座出候様ニ被為思
召候由

一、同三丁巳年二月十一日御加増弐千石拝領本知合三千石其後父兵庫
頭正綱相果寛永元年甲子年五月跡式都而五千石ニ被成下候正綱同
心も一ツニ被成合百人其己後打出シ新田等高被為  結都合六千石
余之
御朱印寛永二七月二十七日従
秀忠公被  成下御書出し之写左ニ記之
相模国三浦郡弐拾六ケ村四千参百六拾七石余三斗上
総国望施(陀)郡三ケ村五百七拾五石壱斗余周(すず)隼(准)郡
太和田村五拾七石斗余以上
五千石此外六百七拾六石四斗余改出ス 3百参拾石弐斗余開発ノ地
都合六千六石斗余 目録有別紙
事宛行之訖全可領地者也
寛永二
七月二十七日  御朱印
向井将監とのへ
本文将監方有之
一、寛永七庚午年六月二十五日天地丸御船江 御成ニ付老中より之書状之写
尚以水戸中納言様も同道被成候井伊弁之助本多甲斐守も
一筆申入候明日之儀自然天気悪敷候而雨降候ハハ被
御共召つれ候以上
為 成間敷候間内々其心得可仕旨 上意御座候随而
態御船尓御膳上ケ候儀も御耳ニ達シ申候就中御供
之衆江も振舞仕候由申上候へ者いかにもかろく仕ら
せ可申由私共方ら可申遣由 上意ニ候間必々いらさ
る儀者御無用ニ候一段御機嫌能御座候間明日御供之
衆迄被為仰付候間可御心易候我等も今晩御見廻申度
候へ共明日之御用之間手透無之候間無其儀候何ニて
も御用候ハハ可被仰越候恐々謹言
六月二十四日      酒井讃岐守(忠勝)
向井将監様
本文将監方ニ有之
老中ら奉書之写
一筆令啓上候明日之儀かさり御船ニ被為 召海口
江被為 成 環御之時分も右之船くハリのことくニ
てすへ尓浅草江被為 成候筈ニ候間其御心得可有之
将亦連船も御座之御跡ニ引付参候様ニ御心得尤ニ
候為其申入候恐々謹言
六月二十四日
阿部豊後守(忠秋)
松平伊賀守
向井将監殿
本文将監方ニ有之

一、寛永七庚午六月二十五日
家光公天地丸御船被為 成砌奉献上御樽肴七五三差上ル
御相伴水戸中納言頼房卿井伊弁之助本多甲斐守也老中御
近習衆其外御供之衆不残饗応す難有 上意ニ而御盃頂戴
嫡子右衛門(直宗)次男(五)兵部(正方)御盃頂戴翌日将監黄
金拾枚時服四ツ御羽織壱ツ右衛門江時服四ツ御羽織壱ツ兵部
江時服三ツ御羽織一拝領仕候同心参拾人御増都合百三拾人右
衛門ニ同心参拾人新規ニ御預御船奉行被 仰付候

一、同年之暮霊岸嶋八町堀屋鋪拝領之ス

一、同八辛未年
秀忠公以御諚 安宅御船ヲ於豆州伊東造シコトヲ斗

一、同九壬申年御老中より御證文之写
向井将監に安宅船一艘被 仰付候然者伊豆山中尓て
材木見たてに将監方ら人を越候間案内之者をそへ可
被申候右材木山中に有之て取候尓おいてハ不及申候
へとも船一艘ふんとらせ可被申候入用銀者将監方よ
り可被申付候以上
寛永九 八月十八日     右衛門印判
大 蔵印判
伊 賀印判
信 濃印判
讃 岐印判
大 炊印判
伊豆之山に材木無之候ハハ此手かた可被返候以上
伊豆 御代官衆中
本文将監方ニ有之

一、同十癸酉七月酒井讃岐守ら状之写
尚々稲葉丹州申談委細懸御目候處不大形御機嫌ニて一段
之御仕合ニ候間可御心易候以上
昨日者船之絵具ニ懸御目様申上候処ニ奇特成事仕懸
御目とて一段御機嫌ともニ候本之船ニて御覧被成
候て見事ニ可有之いつそ御覧可成之旨 上意ニて
候猶以面上可申入候恐々謹言
七月二十六日      酒井讃岐守
向井将監様
本文将監方ニ有之

一、寛永十癸酉年相模国三崎法城(法条)之内岩之内ニ而七尺四方厚
サ壱尺之石此文記切附置

 

あああ

慶長二十年乙卯大坂御帰陣之従節征夷大将軍秀忠公此
處向井左近将監忠勝拝領寛永十年癸酉従  征夷大将軍
家光公日本一之大安宅御船向井左近将監忠勝承之好而
為作既成就矣  大将軍彼御船被為成天下諸大名有供奉
其時号日本丸
伊勢之国主従仁木右京大夫義長五代之孫修理大夫政長
伯父源氏向井式部大輔政隅紀伊国於田辺参拾八歳而討
死武勇之誉有之式部大輔嫡子向井治郎少輔長勝伊勢於
田丸碁場助言仁碁相手両人指害四拾三歳而切腹治部少
輔嫡子向井刑部大輔忠綱於勢州度々武勇之誉有之六拾
六歳而有伊勢田子(慥)柄病死刑部大輔嫡子向井伊賀守政重
駿河国於用宗之城天正十壬辰年六拾一歳而討死伊賀守
養子向井伊兵衛於同所討死同心遠藤飛騨杦山作左衛門
并家来之者落合三蔵大時孫左衛門渡辺勉角助脇久蔵原
庄右衛門討死之者共信玄公勝頼公御存知之者也其外大
勢討死名不及記
武田勝頼公麾下後伊賀守嫡子向井兵庫頭政綱勝頼公家
康公両御代数度之武勇誉有之勝頼公代走廻大方甲陽軍
記有之六拾九歳而病死
徳河家康公麾下秀忠公家光公二代麾下向井左近将監忠
勝大坂乙夘両度之御陣武勇誉有之従 秀忠公宛粮地相
模国三浦郡之内二十六箇村上総国望陀郡三箇村周郡大
和田拝領之

左之通申置之
一、同十一甲戌年之夏安宅船御船成就武州江戸相廻す同年秋之
末 家光公従京都 還御同十月安宅御船 上覧則御預ケ
被 遊候

一、同十二乙亥年六月二日安宅御船江
家光公被為 成諸大名供奉御熨斗蚫御折御樽御引渡御吸
物指上ル御能有之御酒宴及数刻諸大名於 御前舞曲音
御前江忠勝被 召出難有 上意之上御盃頂戴翌三日忠勝
江黄金五枚時服四ツ御羽織一ツ右衛門(直宗)江時服四ツ御羽織
壱ツ忠勝五男兵部(正方)江時服三ツ御羽織壱ツ拝領右安宅作御
船日本丸ト御名付被 遊候

一、同年六月十一日尾張殿紀伊殿水戸殿安宅作日本丸御船江
依 上意乗船此節饗応仕御盃賜則返盃仕ル翌日銀子時服
等賜候此節御老中方諸大名ニも入来音物等数多有之

一、同十八年辛巳十月十四日於江戸病死六拾歳本叡山本覚院
ニ葬法号
眞珠院殿月峯宗心居士

忠勝妻 江州浪人 中田高心娘
寛文四甲辰年十一月十五日六拾四歳尓して於武州江戸
病死深川霊岸寺に葬法号
天窓院殿清誉教運宝寿大姉

忠綱-正重-正綱-正綱女子
御小姓組 戸田三左衛門政重妻

忠綱-正重-正綱-正綱次男
走水御船奉行相勤病死跡目断絶
向井左門正通

忠綱-正重-正綱-正綱女子
御書院番 中川左平太 実名不相知 妻

忠綱-正重-正綱-正綱女子
水戸頼房卿家来 中山市正信正妻

忠綱-正重-正綱-正綱女子
御小姓組 戸田判十郎重政妻

忠綱-正重-正綱-正綱三男
駿河大納言忠長卿江被為 附候忠長卿御逼塞以後退身仕
任斎と相改閑居仕病死仕候

忠綱-正重-正綱-女子
駿府町奉行 渡辺孫助久次妻

忠綱-正重-正綱-女子
本多下野守家人 印藤弥一右衛門 実名不相知 妻

忠綱-正重-正綱-正綱四男
水戸宰相頼房卿御船手相勤候処ニ病気ニ付中山備前守方
江引取病死致ス
図書助長次

忠綱-正重-正綱-正綱五男
水戸宰相光圀卿家人ニ被成候處病気ニ付中山備前守方ニ
引取病死致ス
向井弾右衛門勝正

忠綱-正重-正綱-正綱女子
大御番 駒井孫四郎 実名不相知 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝一男
御船手 五郎左衛門正俊

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝二男惣領
右衛門佐直宗

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝三男
駿府大納言忠長卿家人 大学長保

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝四男
大膳正元

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝女
松平出羽守家人 高刀喜兵衛 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝六男
初名八郎兵衛 兵庫助政興

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝七男
六左衛門正次

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝女
御船奉行 小笠原彦大夫 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝八男
浄土宗出家 栄誉残雪 浅草九品寺

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝女
青山和泉守家老 蜂須賀金左衛門 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝九男
松平讃岐守家人 庄右衛門正勝

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝女
水戸中納言頼房卿同宰相光圀卿家老 中山備前守 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝女
大御番組頭 飯河新左衛門 妻

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝拾男
紀伊大納言頼宣卿家人 八郎大夫正春

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝十一男
水戸少将継方卿家人 平八郎重政

忠綱-正重-正綱-忠勝-忠勝五男三代目
初名兵部忠継母江州浪人中田高心女
将監正方
以下略

次の『寛永譜』(一)、『寛政譜』カン百三は、三代長多忠から書かれており、忠勝までをみると人物、称、事績において『本向系図』と一致する。

長忠(修理亮)-長晴(式部大輔)-長勝(式部少輔)-忠綱(刑部大輔)-
正重(伊賀守)┬政勝(正之・伊兵衛)
└正綱(兵庫頭)-忠勝(将監)
向井(清和源氏義家流足利流)

次に『系図纂要』第十冊をみると、他系図にはみえない正隅の名がある。この正隅を長晴に比定してみると没年齢が合わない。また、正重の天正十年没は七年の誤りである。

○○1┬○○2
└正隅3-長勝4-忠綱5-正重6┬勝政7
└政綱8-忠勝9┬忠政10--
├政勝11
├政次12
├政興13
├重勝14
└政儀15
忠政-正員16-正暉17-正○18-正○19

1=(仁木右京大夫義長四世)
2=(政長・仁木修理大夫)
3=(向井式部大輔=於伊勢国田丸討死三十八)
4=(向井治部少輔=於伊勢国田丸囲碁助言与相手倶指違而死四十三)
5=(向井刑部大輔=於伊勢国田子柄討死)
6=(向井伊賀守=属武田信玄、天正十年於望宗城討死六十一)
7=(向井伊兵衛=死于持宗)
8=(一ニ忠安、向井兵庫頭=六十九歳死、仕信玄後仕東照宮ス)
9=(向井左近将監=仕台徳ス賜相州三浦郡二十六邑、上総望陀郡三邑周准郡大、和田等地、寛永十八年七ノ十四死真珠院月峯宗心)
10=(右衛門佐=宝永二年十一月十一ノ十五死太清院賢岸竹翁)
11=(兵部少輔)
12=(弁之助)
13=(八郎)
14=(内蔵之助)
15=(大亀助)
16=(将監=享保十八年七ノ二十四死大道院無関正入)
17=(兵庫=京町奉行、享保十七年五ノ七従五下伊賀守、同十七十二ノ二十五卒宗全院太河了達)
18=(将監=寛保元年十二ノ二十四死高徳院快叡常慶)
19=(将監)

この系図に合わせて、『戦国期武田水軍向井氏について』をご覧下さい。
平成10年3月神奈川地域史研究 第16号抜粋

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