【コラム】いいことわるいこと

投稿日:2016年7月1日 更新日:

心理学を専攻していたときに学んだことがあります。とある研究結果によれば、「人がもっとも幸福を感じるときとは、自分が望んだとおりのことが自分に起きたとき」であるそうです。
どうでしょうか。思い起こしてみれば、素晴らしいサービスを受けたとき、物事がうまくいったとき、悩みが晴れたとき。わたしの期待していたことが、期待していたままに解決されていないでしょうか。
ひるがえって・・・、ひとこと多い・あとちょっと気を遣ってくれたら・ここだけが目につく。そのような状況は、せっかくの幸せを台無しにしてしまう大不幸となりそうです。
ほんの少しの過ぎたること、足りないことがあるばかりに、過不足に目がいってしまう。目がいってしまい、反射的に心の趣くままに手や口をだしてしまう。
それでは期待することをやめてしまえばいいか。幸福と不幸を同時に手放すことなど出来るはずがない。
ひとは期待せずにはいられません。つながりの中に住む我々は、なにかに対して常に思いをはせているからです。ともに暮らしているからです。
子どもは生後10ヶ月となり、つたい歩きをはじめました。人間らしさに磨きがかかり、親としての期待がふくらみます。同時に、彼がこれから成長をしていくにつれて引き合わせる、ひとりの人間として生きていく指針を仏教に求めてみようと思います。

  • 諸悪莫作(しょあくまくさ)
  • 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
  • 自浄其意(じじょうごい)
  • 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

とあるお経にこうあります。

  • わるいことをしない
  • よいことをする
  • そのこころ浄し
  • これが仏の教えです

「わるいこと」「よいこと」善悪の基準を社会一般のそれだと考え、「そのこころ浄し」を心身共に健やかな状態に保つことと読み替えてみれば、至極当たり前のことのようであります。まるで幼稚園や小学校で習うことです。
古人がそのような感想を述べた際、とある禅師は「子どもに対して大人がしつけとして話すような内容だけれども、ではこれらの字を地でいく人生を歩んでいる大人はそういるだろうか(いや、いない)」とも言っています。
たしかに難しい。七仏通誡偈というお経で、書いてあることはシンプルですが、シンプルであるがゆえに意味深く、行い難い。
七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)とは、仏教のはじまりをつくった人:お釈迦さまより前に存在したとされる6人の仏と、お釈迦さまを含む7人の仏(過去七仏)みんなが説いた教えを一つにまとめたとされる詩です。
曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵という本に「諸悪莫作の巻」を設けるなど、シンプルさのなかの奥深さを諸悪莫作に追求しています。
諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。4つすべてが合わさって1つの教えですが、その中からあえて1つを選ぶとしたら、自浄其意を「捨てる」として中心にしたいと考えてみました。
仏教の基本である7人の仏が「これが仏の教えである」と説いた戒めですから、この3つを守ることには大きな意味があるようです。すこしだけ詳しく見てみます。

はじめに、「わるいことをしない」とあるのは、どうしても悪いことをしてしまう人としての自覚の表れのように思えてなりません。
そして、「よいことをする」。善悪の基準を社会一般のそれとして判断するのか、仏教における善悪の基準を第一にするのか、大事なところだと言っているようです。
そして、「そのこころ浄し」。先ほどは「心身共に健やかな状態に保つこと」と読み替えてみました。
漢字の並びや意味から正確な読み方をとることは出来ますが、すこし違った見方をしたいと思います。
自浄其意。自にはおのずから(自然と)・みずから(自分で)、の2つの読み方があります。浄を動詞として捉えたならば、このように見てとれないでしょうか。心が自然と清まる、わたし自身が心を浄める。
悪いことをしない、よいことをしていれば、自然と、其意:わたしのこころが清浄となる。
悪いことをしない、よいことをする。そして心を常に清く保とうという私の決意です。
しかし、ここでもうふたつ、自浄其意に意味を見出してみたいと思います。
ひとつ。自然に浄まるにしても、わたしが浄めるにしても、浄めることができる素質が其意になければなりません。わるいことをしない、よいことをする。しかし、どうしても出来ないときがあるでしょう。だからこそ、そのこころ浄し、と言い切ってみました。よいことをしても、悪いことをしなくても、すでに、もともと、わたしたちのこころは清い。
たとえ、だれかにとって良いことでも、だれかにとっては悪いことかもしれません。また、時が経ったときに、反芻してみれば“あれは悪かった/良かった”となることもあるでしょう。社会一般のそれを基準にした善悪判断であれば、迷うことが出てくるようです。
それも当たり前で、ずっとバブルが続くわけではありませんし、低迷期よりも低迷することもあるでしょう。毎日、基準を見直さなければなりません。
そもそも、浄とはどのような状態でしょうか。部屋のなかに何もない状態でしょうか、または荷物が片付いている程度のことか。
ここまできたら、人の判断基準などあてにならないことが分かります。
そう申しましても限りある命を生きている私たち。なにがいいか、なにが悪いか。過去の善悪を学び、未来の善悪を信じ、いまを生きるしかありません。
自浄其意(じじょうごい)。
そのこころ浄し、から禅宗の立場から言い換えてみるとしたならば「捨てる」としたい。
人が社会において悩み考えた結果、いろいろなことを行います。悪いことをしてしまったときは、隠さず、謝り、心を改め、活かしていく事実だけを残して悪い心を捨てる。良いことをしたなら、良いことをしてきた事実を自身の重荷としないよう、良い心を捨てる。
期待することは人間の基本です。そして、幸せや不幸を感受できるのも人間だからこそ。
素晴らしいサービスを受けたらば、細々とした考えは捨てて、一期一会のサービスであったと喜び、あとをひかない。
ほんの少しの過ぎたること、足りないことに目がいったらば、手や口を出すか見極め、私心を捨て、よいことをする/わるいことはしない。

弱く、くじけるのが人間です。わるいことをしてしまいますし、色々な想いに振り回されてしまうものです。気づいたときに浄めよう、新たな気持ちで日々を過ごそうと、このお経は教えてくれているようです。

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