【コラム】手を把って共に行く

投稿日:2020年1月1日 更新日:

あけましておめでとうございます。年頭にあたり陽岳寺各家檀信徒の家門繁栄、子孫長久、諸災消除、万福多幸を祈念申し上げます。

【コラム】手を把って共に行く

子どもも4歳となり、大人顔負けの言動をします。小さいなりに知恵がついてきたことで、彼の意識の向かう先が、はたで見ている側も分かります。こういうことをしたいのかな、上手くできたのだな、嬉しそうだな、と観察できます。

ある日の食事中、なんとはなしに見ていました。すると息子が「お父さん、顔こわいよ」と言うのです。

ぼーっと見ていただけで口角もあげていませんから無表情。そうか、無表情とは怖い顔なのか。とすると私は今まで無表情で子どもの食事風景を見ていたわけで、食事のたびに子どもからしたら怖い顔で監視されていたことになるのか、と気づいたのでした。同時に、どうすればいいのか考えました。答えは簡単で「おいしいね」です。

このとき、私は「息子の意識が食事に向かっている」事象を観(み)ていました。自分の外側で誰かが感動している様子を、他人事として見ていた。

正解のひとつは「息子と一緒に意識を食事に向けて、共に心を動かす」でしょう。

子どものような顔をして、という言い回しがありますけれども、キラキラした目/わくわくした顔で「(今の見てた?聞いた?)(すごいよね/楽しいよね)」と確認されたとき、「本当だ!」「そうかな?」とうなずけるためには、この私も感動する必要がある。同じ目線で、同じ方向を向いて、自身の情意の動きを感じとることが察せられなければならない。

あなたが楽しいとき、私は楽しい。悲しいとき、私は悲しい。《衆生病むがゆえに我もまた病む》とはお釈迦さまの言葉です。思いを遣る先、こころを遣う方角が一致しているとき、ひとは心の底で繋がることができる。たとえば結婚です。この人と一緒にいたい、過ごしていきたいと思うからこそ共に生きる。

人がみなひとつだけ持っている「いのち」は分けることはできません。しかし、生きている者同士であれば、お互いに「いのち」の向く先を確認することができる。同じ方向を向くことはできる。

これは、生きている人同士だけのことではないと思っています。つまり、いまは亡き人とも繋がることができる方法ではないか。

 

生者と故人とのつながりにおいて、生きている人間が、故人の遺志を汲みとる、ということです。これは、生者にとって大きな課題のひとつです。ここの解決方法とはなにか。

それは、故人の「生きる力」とはなにか、向き合ってきた「不思議」とはなにかを探ること。その上で、生者が自身の課題に向き合うことではないか。

 

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第一則「趙州狗子」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや」
州云く、「無」。

評唱(編者 無門慧開禅師による批評):
無門曰く、「参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。しばらくいえ、如何が是れ祖師の関。ただこの一箇の無字。乃ち宗門の一関なり。遂に之をなづけて禅宗無門関という。透得過する者は但だ親しく趙州に見えるのみに非ず、すなわち歴代の祖師と手を把って共に行き(把手共行)、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ることなしや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将って、通身にこの疑団を起こしてこの無の字に参ぜよ。…云々。」

太字部分「手を把って共に行く(把手共行)」は私が好きな禅語の一つです。ご紹介するにあたり、出典の前後も掲載しました。

 

下線部意訳】この大問題が解ける者は、今までこの大問題を解いてきた亡き先達と手をとる。共に行く。さらには、眉毛がくっつく、結わえるほどに、同一の目で見て、耳で聞く(ことができる)のだ。喜ばしいことだ!

 

「手を把って共に行く」を言い換えるとすれば、「先人の同じ思い・志に触れ、私の人生を生きる」と考えます。

論理を超越した大問題。今目の前にそんな不思議があり、その不思議にこの私は一生懸命に取り組んでいる。学校か、家庭か、仕事のことか、介護か、子育てか、なにかか。人生の一大事とは、内容が同じでなかったとしても、底の部分ではつながっていませんでしょうか。故人の思考や言動に思いを馳せ、自分だったらどうかと悩む。故人と私は違う人間ですので、その故人を分かることはできないかもしれない。それでも故人の横に立ち、同じ耳目で見聞きしたい。なにが故人の「生きる力」であったのか、向き合ってきた「不思議」について考え、思いを馳せ、自分の人生に含みたい。

横に立ち並べば、その人の横顔が見えそうなものです。しかし私たち生きている者にとって死者の顔はなく、死者の背中しか見えません。顔色は察することしかできない。見えたとしても生前のときの横顔でしかない。死者とは、死後となった今どのような顔をしているか分からない。なぜならば分からなくてもいいから、かもしれません。死者が生前なにと向き合っていたか生者が知り、その上で、生者が自分の人生の道を向くこと。生者が自分の人生の道を向くことで、死者は死後もその生者の向く先に、ともに向いてくれる。

死者が死後となった今なにと向き合っているかは、生者がいま向き合っているものに引きずられる。「故人が見守ってくれている」ということはそういうことなのではないかと思うようになりました。死者の向いている先、歩いている道は、生前と死後で違うのだと。

つまり、生者は死者の生前向いていた先に触れつつ、自分の人生を向くことが期待されている。このことが為されることによって、死者の死後に向く先が生者の人生そのものになる。生者が人生の不思議解決を全うしようとするとき、死者もその不思議に向いてくれている。私たちの「生きるちから」となってくれる。「いのちを引き継ぐ」ということはそういうことなのではないか。

こころの底でつながる、本当に誰かと共に行くには、自立が必要です。手をとって、あっちだよと促すとき、外面だけを見てみれば確かに「手を把って共に行く」ように見えますが、手が離れれば、引かれている側は立ち黙ってしまう。

死別が、立ち黙ってしまうのは道理です。ともに生きていたけれども、いなくなってしまうのですから。悲しくて寂しくて辛くて、ふさぎこんでしまう。しかしそこで、生者を立ち上がらせてくれるのも、この私に孤独を感じさせた死者しかいないのではないか。

死者の思いに触れ、私に私の人生を歩ませる死者がいる。私が私の人生を歩むことで、死者は死者としての死後の人生を得る。

生きている人も、死者ならば生前も死後も、人というものは皆人生の歩みを、自立を促してくれる伴走者になることができる、と。そう考えています。(副住職)


◎毎月第2・4金曜日の夜7~8時、ゆったり寺ヨガを行っております。会費1500円、レンタルマット300円。[2020年1月10・24日。2月14・28日]

■お寺ゲーム部:1月19日(日)13時~19時(途中入退室OK・申込不要・参加費自由:仏様にお参りを)。時間中、読経や坐禅も予定。
詳細はこちら→ https://www.puninokai.com

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