【コラム】令和と諸行無常

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来年にむけてカレンダーや手帳をお求めになる方が多いと存じます。

先日、京都便利堂から「日めくりカレンダー」が発売されました。その名も『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』。

日めくりですから31日分、全国から超宗派で集まった31名のお坊さんが登場。仏教語・法語と、お話しが掲載されています。

9日「諸行無常」を陽岳寺副住職が担当。

どのような内容を掲載していただくか悩みました。臨済宗らしい禅語にするか、禅宗らしいお釈迦さまが発した詩にするか。そこで思ったのは、やはり仏教ど真ん中、基本であるお釈迦さまの教えとなる法語であろうと鑑み、「諸行無常」を選びました。

「諸行無常」を言いかえれば「この世にあるものは、すべてはうつりかわる」。成功も失敗も、生も死も、勝ちも負けも、すべては無常であり、そのままでいることはない。こう聞くとむなしい印象を受けますが、むしろ逆である。勝ち負けにも、間違いを恐れることも、成功体験にとらわれる必要も、誰かと自分を比較するこころも、まるで真夏の涼風に吹かれるがごとく、我々はサラリと流すことができる。

そもそも人間は何事にもとらわれる必要がない。諸行無常とは、過去を無かったことにするのでもなく、無かったことになるわけでもない。本来の人間の姿として、なにものにも とらわれることはできないという救いである。毎月見ておきたい内容として、9日に紹介しています。

そもそも諸行無常とは、仏教のはじまりとなったお釈迦さま生涯のテーマでありました。

「この世にあるものは、すべてはうつりかわる」「つながりのなかに、存在している」「人はみな苦しみ・ままならない内容を抱えて生きている」「わたしには、わたしがわたしであるという根拠はない」等々、世の道理を見抜かれたお釈迦さま。その出発点とは、等身大、彼自身の悩みです。その大問題は大きく言って、ふたつあると私は考えています。

ひとつは、お釈迦さまの生まれです。

お釈迦さまは小国の王子として生まれたため、自分の命だけではなく自国の民すべての命を背負う宿命を背負っていました。

日本でいえば、戦国時代の国衆レベルでしょうか。どの武将のもとに付けば、小さい自国は生き延びることができるか。争いに打ち勝つために、刻々と変わる無常世界を乗り越えるために、どうすればいいか?争っても次の争いがあり、自他ともに怨みは消えないのはどうすればいいか悩みます。

最終的には、お釈迦さまの国も滅び、従っていたコーサラ国も、マガダ国に併合されるのですが…。

 

もうひとつは、生老病死。誰もが持つ、このわたしが避けられない悩み、ままならない内容です。生まれ死ぬ、はじまりがあれば終わりがあること。身体的または精神的にいままで出来たことが出来なくなる老い、そして病い。この生老病死を自分の問題として抱えたところにお釈迦さまの特異性があります。

出家を志すきっかけ、仏教説話「四門出遊」にその特異性を見出すことができます。

 

お釈迦さまは、お生まれになったときから、王家の人々に出家されないように…と育てられてきました。帝王学を詰め込まれた箱入り息子です(出家前のお釈迦さまを悉達太子、しったたいし、と呼びます)。そんな彼にも王城を出て、町の様子を見る時がやってきました。見つけたものを次々に従者へ聞くのです。

王城の東の門を出て、従者にあの者はなにかと聞けば「老人です。貴賤を問わず、人は命が尽きるときへ向かいます。時がたつと肌はシワが寄って固くなり、腰は曲がり、背が縮むのでございます。誰もまぬがれることはできません」との答え。

王城の南の門を出て、従者にあの者はなにかと聞けば「病人です。病にかかると痛みが止むことはありません。病とは貴賤を問わず、誰もまぬがれることはできません」との答え。

王城の西の門を出て、従者にあれはなにかと聞けば「死人の葬列です。死は貴賤を問わず、誰もまぬがれることはできません」との答え。

その帰りに、晴れ晴れとした顔で、何ものにもとらわれない姿の人間を見た悉達太子。従者にあの者はなにかと聞けば「出家者です」との答え。

城に戻った悉達太子は静かに思惟します。日頃の楽しい歓待にも悦べません。貴賤を問わず、誰もまぬがれることのできないことがある。はじまりがあれば、おわりがある無常をどうやって乗り越えればいいのか。

太子と生老病死との出会いについて「四門出遊」は説いています。従者は生老病死について、情報・知識として答えるのですが、悉達太子時代のお釈迦さまは目の前の事実を、自分の問題として抱えたのでした。

 

このように本当の意味で、争いに勝つ、無常を乗り越えることがお釈迦さまの命題でした。お釈迦さまの言葉として残されている、法句経にこうあります(ともに友松円諦 訳)。

勝つ者 怨みを招かん
他に敗れたる者 くるしみて臥す
されど
勝敗の二つを棄てて
こころ安静なる人は
起居(おきふし)ともに
さいわいなり(法句経 二〇一)

まこと 怨みごころは
いかなるすべをもつとも
怨みを懐くその日まで
ひとの世にはやみがたし
うらみなさによりてのみ
うらみはついに消ゆるべし
こはかわらざる まことなり(法句経 五)

無常なるがゆえに、人の思いはままならず。無常なるがゆえに、今のわたしが今のままであることはできない。無常なるがゆえに、自分と他人の区別は無意味であり、お互いがお互いに関わり合う中でしか生きていけない。

このわたしの住む居場所がそのような諸行無常の世界であるならば、うらみなさをもって暮らすことだ、と法句経は示しています。

うらみなさとは、令和の和のことです。令は置き字、意味はありません。諸行無常の娑婆世界において、うらみなさ、和はぴったりです。本当の意味で、争いに勝つ、無常を乗り越えることは、世の人にとっても命題です。

時は平成から令和にうつり、令和元年より令和二年へとうつります。祈祷会の終わりの礼、「一衆触礼」も和の姿。うらみにとらわれない和をこれからも大切にしたいものです。

みなさまにとって来年も良い年になりますよう、令和も良い時代となりますよう祈念申し上げます。合掌(副住職)

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